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ローマⅠ

ラファエロは言った。近代ローマのほぼ全域は古代ローマの残滓の上に建設されている。そのため、足が古代の瓦礫に当たることなく歩を進めることはできない。・・・・・それはローマのほぼすべての建造物に歴史の刻印が押されているようなものである。それらは、異なる時代の様々な要素を同時に認識することができる絵のようなものである。(コリンヌ、2-III)

コロッセオ、オベリスク、何十世紀も前の彼方昔のもの、エジプトやギリシャなどから集められたものなど、ロムルスからレオン十世までのあらゆる驚嘆がここには存在する。それはあたかも、偉大さが偉大さを呼び込み、人類が経年劣化から守らなければならないものが全て一堂に会したかのようだ。これらの驚嘆の数々は全て死者に捧げられたものである。彼らこそ永遠であり、わたしたちは通行人にすぎない。(コリンヌ、2-III)

たぶん、ローマの秘密の魅力の一つは、想像と長いまどろみが共存している点だ。(コリンヌ、2-III)

ⅰ)カンピドーリオ広場 (P.za del Campidoglio)

オズワルドとコリンヌはカンピトリオ広場の階段のふもとにある二匹のライオンをじっくりと見入った。これらはエジプトから取り寄せられたものであるが、そのすばらしい表情は強さと休息を伝えると同時に、動物や人間とは異なる次元の何かを感じさせてくれる。エジプトの彫刻家たちは、人間の顔よりも動物の顔を捉える才能により長けていた。(コリンヌ、4-IV)

そして、マルクス・アウレリウス帝の騎馬像は、様々な歴史的記憶の中に、美しく、穏やかに立っている。そう、そこには全てがある。ディオスクロイは英雄の時代を、ライオンは共和国時代を、マリウスは市民戦争を、そしてマルクス・アウレリウス帝は帝国の偉大な日々を象徴している。(コリンヌ、4-IV)


解説

読者は「ルネサンス期に天才ミケランジェロによって作られた階段が特徴的な美しい広場・・・」などの言葉を期待すると思うが、スタールはルネサンス期についてはほとんど触れていない。彼女は現実の景観からひたすら古代ローマ時代のイメージのみを抽出しようとするが、それはあくまでも19世紀初頭に想像しうる古代ローマのイメージである。当時と現在で大きく異なる点の一つが交通事情である。自動車のない19世紀のローマは現在と異なって思いの外静かだったことが理解される。
第16代ローマ皇帝のマルクス・アウレリウス帝(在位:161-180)は「五賢帝」の一人で、軍事よりも学問を好んだ皇帝として知られる。マルクス・アウレリウスの騎馬像はキリスト教化される前の古代ローマ時代に作られたもので、ローマ皇帝の騎馬像としては現存する唯一のブロンズ像である。この像は聖ポールの騎馬像と混同された故破壊を免れた。スタールの時代にはカピトル広場の中心に設置されていたが、現在はカピトル美術館に収められており、現在広場にはレプリカが置かれている。

ⅱ)ティトゥスの凱旋門 (Arco di Tito)

イスラエルの征服のためにティトゥス皇帝に捧げられた美しい凱旋門がパラティーノの丘の端にある。ローマに住むユダヤ人は決してこの凱旋門をくぐらないという。そしてユダヤ人がその代わりに通った、という小さな道を指差して教えてくれた。(コリンヌ、4-IV)


解説

ティトゥスの凱旋門はヴェスパシアヌスとその息子のティトゥスが率いるローマ軍によるエルサレムの戦勝(70)を記念して81年に建てられたものである。アーチ内部にはエルサレム包囲戦を描いたリリーフや戦利品(祭壇、ラッパ、金の燭台など)が彫刻されているがこれらはローマ軍によるエルサレムの包囲を象徴している。ローマ軍は征服したどんな街からでも、そこから戦利品を持ち去ることで戦勝を祝うことを常とした。したがってここに描かれているイメージは彼らが実際に持ち去った物である。イエルサレムと関連深い金の燭台 (candelabras)がもっとも象徴的な戦利品だった。

修復前の18世紀のティトゥスの凱旋門の姿(写真)

ⅲ)コロッセオ (Colosseo)

この素晴らしい建造物は、金と大理石から抽出された石のおかげで現在までその形を止めることができた。ここはもともと獰猛な動物と戦うグラジエーターのための闘技場だった。こうして強い感情によって、ローマの庶民を楽しませ、だました。その一方で(人間が本来持つ)自然な道徳感情は封じられた。(コリンヌ、4-IV)

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解説

ヴェスパシアヌス帝の命で72年に建設が始まり80年に完成した世界的に有名な円形闘技場。
コロッセオの建築費用の大半は、上にも述べた、ティトゥスが持ち込んだエルサレム神殿からの戦利品によって賄われたという。ローマ皇帝は、グラジエーターをはじめとする催しによって庶民に娯楽を提供することによって、社会や政治の問題から目を背けさせようとした。スタールの「自然な道徳感情」とはキリスト教的倫理観に根ざした感情を指している。

ⅳ)サンタンジェロ城 (Piazza del Campidoglio Castel S.Angelo)

サン・ピエトロ大聖堂へ行く途中で、彼らはサンタンジェロ城の前に立ち止まった。

「この建物の外壁はとても独特なもの」とコリンヌは語った。
「アドリアーノの墓はゴート族の手によって要塞と化したため、ここには異なる二つの目的にかなった二つの特徴が共存している。それはまず死者のために建造された後、通り抜けのできない城壁によって囲われた。しかしこの世に生きる人々は外壁を増強させることによって、この建物に敵意を感じさせる何かを付け加えた。それは墓碑の沈黙と高貴な無用さとくっきりとした対照をなしている。城の頂上には、むき出しの剣を持ったブロンズの天使が見える一方、屋内には石を彫って作った残忍な牢獄がある。ハドリアヌス帝から私たちの時代までの全てのローマ歴史を飾る出来事がこのお城とつながっている。」(コリンヌ、4-III)

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解説

サンタンジェロ城はローマのテヴェレ川右岸にある。スタールが書いた通り、もともと廟だったがその後城塞化した。
135年ローマ帝国の「五賢帝」のひとりハドリアヌス帝が自身の廟の建設を開始しそれは彼の死後139年に完成した。その後廟は軍事施設として使われるようになり403年にはローマの都市城壁であるアウレリアヌス城壁の一部に組み込まれた。
10世紀にはヴァティカンの軍事的要塞および法王の避難所となり、13世紀にはヴァティカンと直結する避難通路も作られた。スタールは書いていないが、16世紀前半にパウロ3世の命による豪華な住居も見ることができる。
サンタンジェロ城の名称は590年にローマでペストが大流行したとき、教皇グレゴリウス1世が城の頂上でつるぎを鞘に収める大天使ミカエルを見て、ペスト流行の終焉を意味するとしたことに由来するとされる。この故事を称えて16世紀に大理石の天使像が城の頂上に設置された。

ⅴ)パンテオン (Pantheon)

「パンテオンは実際よりも大きく見えるように建築された。」
「・・・始めは実際より小さく感じるだろう。パンテオンにとってこれほど有利な幻想のからくりは、柱と柱の周りの何もない空間の長さが通常より長いがためである、と聞いている。しかしこの理由以上に、細かい装飾がほとんどないことが、この幻想を作り出しているのではないだろうか。(ルネッサンス時代にできた)サン・ピエトロ大聖堂には細かな装飾が施されすぎている。同じように、古代詩は大枠のみ描かれ、その中身はその詩を聞く人の考えに委ねられ発展していく。全てのジャンルにおいて、私たち近代人はやりすぎである。」

この神殿はアウグストゥス帝の腹心だったアグリッパが自身の盟友もしくは主人とみなしたアウグストゥス帝に対して捧げられたものである。しかし謙虚だったアグリッパの主人はこの神殿を捧げられることを拒否したため、アグリッパは地上の神である政治権力に対してではなく、オリンポスの全ての神々にこの神殿を捧げざるおえなくなった。(コリンヌ、4-III)


解説

パンテオンは、現存する古代ローマ建築としては最も完全な形を残し、かつ世界最大の石造建築を誇る。「すべての神々」を意味するパンテオンはもともとローマ神を祀る万神殿だった。パンテオンは紀元前25年初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近のマルクス・ウィプサニウス・アグリッパによって建造された。実際にはアグリッパは側近以上の存在で、アウグストゥスが皇帝となるまでの月日に彼を支え戦い続けた若き頃からの友人だった。スタールが書くように、パンテオンはもともとアウグストゥスを奉るためのものだったが市民の反感を避けるために万神殿に変更された、という説もあった。しかしこの初代パンテオンは80年に火事で消失した。スタールが訪れたのはローマ皇帝ハドリアヌスによって118-128年に再建され、現在も見ることができる2代目のパンテオンである。