ジェルメーヌ・ド・スタール紹介

スタール夫人
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スタールとフランス革命

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スタール (アンヌ=ルイーズ=ジェルメーヌ・ネッケール, 1766-1817)は絶対王政期、そしてフランス革命期にルイ16世の財務総監および財務大臣を務めたジャック・ネッケルの一人娘としてパリに生を受けました。 彼女が生まれたのは1766年。時はルイ15世の時世でフランスの絶対王政が傾き始めた頃でした。同時にパリはヨーロッパ、世界の中心都市として文化が爛熟した時代でした。

ジェルメーヌは幼少の頃から母親スザンヌのサロンに出入りしていました。そこを訪れるフランス啓蒙主義を代表する名だたる知識人と会話をするのが当たり前、という例外的な家庭環境のもとで育ちました。今のことばで言えばそれはまさしくセレブな生活環境でした。

当時のフランスでは上流階級といえども、女性として生まれれば高等教育はもとより読み書きを習うこともままなりませんでした。しかし、ジェルメーヌは母のサロンを通じて男性並みの知識を会得する機会に恵まれたのです。

第三身分(平民)出身のジェルメーヌは1776年にフランス王室を介してパリ駐在スウェーデン大使スタール=ホルシュタイン男爵と政略結婚を果たし、「スタール夫人」として貴族階級の仲間入りをしました。

フランス革命期が勃発した時スタールは財務大臣ネッケルの娘、およびスウェーデン大使夫人として、権力の内側からフランス革命を目の当たりにすることとなります。

結婚後スタールはスウェーデン大使館内に自分のサロンを開きました。スタールのサロンは当初から強い政治色を帯びていましたが、この傾向はフランス革命勃発後さらに強まっていきました。

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1789年7月14日に「バスティーユ牢獄の襲撃」が勃発しました。国王の軍隊招集やネッケル罷免に反発したパリ市民は市民軍を集結し、バスティーユを襲撃したのです。スタールはこの時以来生涯フランス革命を支持しました。彼女にとってこの事件は単にフランス革命の始まりではなく、自分の父親とパリ市民の絆の証でした。


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1789年からほぼ10年の間、スタールは意見が真っ向から対立した王党派と共和派をサロンに集め、両者の妥協点を見出して穏健でフランス革命に親和的な中道勢力を築こうとしました。しかしそれは時期尚早で、革命期のフランス人の大半からは無理解のみでなく、敵視すらされてしまいました。その結果、ナポレオンがクーデタを起こした1799年頃にはスタールはあらゆる政治グループから警戒心を持たれてしまいます。

最後に上層階級の女性に見受けられたパターンとして、スタールも革命派から政治的迫害を受けた知り合いの貴族階級の男性らの人命救助に尽くしました。彼女は革命政府に身柄を拘束されてしまった友人のために、革命当局とかけあったり、偽造パスポートを用意するなどして亡命の手助けをしました。

女流作家としてのスタール

スタールは作家として生涯に渡って 20作以上の歴史、小説、文学評論、哲学評論、エッセー、ジャーナリズム、女性問題など、多岐にわたるジャンルの作品を残しました。同時にそれらすべてには一貫した政治的意図が込められていました。それは、フランス革命の混乱を早急に終焉させて、自由と秩序に基づいた近代社会を築く、というものです。

1800年以後に出版したスタールの文学批評(『文学について』(De la littérature considérée dans ses rapports avec les institutions sociales, 1800)、小説(『デルフィーヌ』(Délphine, 1802)などには、コルシカ出身の下級貴族、軍人から国家元首の座に上り詰めたナポレオンに対する批判が込められていました。そのため彼を苛立たせ、スタールに対する強い反発を呼びました。それに加えて、もともと女性が政治に口出しすることを好まないナポレオンは、1803年にスタールがパリに近づくことを禁止します。

それが直接的なきっかけとなって、スタールはフランスを去りドイツへの旅に出かけました。その後スタールはスイスのジュネーブから遠くない実家のコペ城で10年以上に及ぶ事実上の亡命生活を強いられます。

古代ギリシャ人は人を政治的動物と見立て、会話の本質をロゴス(論理)と定義づけました。それとは対照的に、スタールは人を社会的動物として捉えました。彼女にとって会話とは意味を伝えるものである以上に、人と人を有機的に結びつけ生活を艶やかにする人生の「潤滑油」のようなものでした。そしてフランスの主に貴族階級の女性が開いたサロンは文化としての「会話」のメッカとも言える存在でした。そのためパリの空気が吸えない、というのはスタールにとって想像を絶する苦しみが伴いました。

そうした苦悩に追い打ちをかけるように、スタールは1803年ドイツ旅行中に最愛の父の急逝の知らせを受けます。傷心にくれたスタールはそれからまもなくイタリア旅行に旅立ち、その成果を1807年に小説『コリンナもしくはイタリア』(Corinne ou l’Italie)として出版しました。

その後スタールはナポレオンの弾圧を逃れ、ドイツの文学、文化、そしてドイツ人の社会風習などを紹介した『ドイツについて』(De l’Allemagne, 1813)を出版します。スタールの著作はヨーロッパ大陸で成功を博しました。

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10年にも及ぶ亡命生活の最中、スタールはコペでもサロンを開き、ヨーロッパ各地から一流の文化人、知識人を招き入れ、知的交流を重ねた結果、コペのサロンはヨーロッパ随一の知的ラボラトリーとして機能しました。そしてフランスを中心としてヨーロッパを軍事支配しようとしたナポレオン体制とは対極的なヨーロッパの多様な国々、文化が対等な関係性を築くことを前提とする世界主義を提唱しました

王政復古に伴ってスタールはパリに戻りましたが、その頃までにヨーロッパの三大パワーは「スタール、イギリス、ロシアである」と言われるほどの著名な女流作家になっていました。それから3年後の1817年にスタールは54歳の若さで亡くなりました。

スタールと啓蒙哲学の時代

フランス革命が勃発した時スタールは23歳でした。つまり彼女は幼少期から青年期までを啓蒙時代の真っ只中で育った「啓蒙時代の申し子」でした。

では啓蒙時代とはどんな時代だったのでしょうか。端的に言えばこの時代はまだ学問の専門化が起こる前で、社会全体から見れば極めて少数のインテリたちがオールラウンドに多様なテーマについて哲学的に議論を重ねた時代でした。

この啓蒙哲学の時代を象徴したのがサロンでした。サロンの会話を通じて学問や知識を身につけていったスタールの作品には、従って啓蒙哲学という時代の刻印が押されています。

そしてフランス革命期、ナポレオン帝政期という怒涛の時代をくぐり抜け、王政復古の時代が始まるまでのおよそ30年の間に、スタールは、政治思想家として、フランスにおける政治的自由主義思想の時代の幕開けに貢献しました。

スタールは啓蒙哲学に内在した抑制と均衡の原則を重んじます。それゆえ「自由」「宗教」を犠牲にして「平等」「哲学」などを一方的に重視する傾向にあったフランス革命の政治文化に批判的でした。

同じ理由から、貴族階層、現状の土地の分配などの「伝統」を一切拒絶し、過去や現状を全面的に否定して新しい社会をゼロから作り出すという人民主権の原則についても批判的でした。

スタールは、死後出版された『フランス革命についての考察』(1818)の中で、彼女自身の中庸を主体とした自由主義政治思想をフランス革命の歴史に託して表現しました。

1789年から恐怖政治までの歴史のプロセスを二つのブロックに分けて、父親のネッケルのイニシアティブによって二院制の議会制度を王に提案し、それが拒絶されバスティーユが襲撃されるまでの歴史過程については、フランス革命史の中で自由の制度化が試みられた「合法的な」歴史的プロセスである、とみなしました。

一方、その後の国民議会制定、フランス革命政治の急進化および恐怖政治については「平等が自由を凌駕してしまった」という理由でその政治的、道義的正当性を否定しました。

このようにスタールの政治思想においては自由と平等の間の緊張関係が中心的テーマとなっています。

わたしはスタール夫人の自由主義的フランス革命の解釈が誕生した歴史的文脈、意味、影響についてすでに『仲介の政治の創出:ジェルメンヌドスタール」Germaine de Staël: Forging a Politics of Mediation ed. By Karyna Szmurlo (SVEC volume 2011:12. Oxford University Press)で発表しています。

Mme de Staël and Political Liberalism in France (Palgrave, 2018)ではより包括的な視点からスタールの自由主義政治思想とその政治的影響、19世紀フランス革命史への影響について取り上げ、スタールの思想が19世紀フランスのみならず現在に至るまで影響を及ぼし続けたことを明らかにしました。

これらの研究の詳細についてはこちらをクリックしてご覧ください。

スタールとロマン主義

これまでスタールの自由主義政治思想について紹介しました。「啓蒙時代の申し子」であるスタールは、同時に文学や文学評論の領域においても活躍しました。その結果、彼女はフランスにおけるロマン主義の誕生にも貢献しました。

一般に、ロマン主義運動とは19世紀前半にドイツ、イギリス、フランスなどを含めヨーロッパ一体で起こった文化運動として知られています。ロマン主義には多種多様な特徴があり、この言葉について定義することは不可能だと言われているほどです。

しかしロマン主義運動において18世紀末のドイツが果たした決定的な役割を見過ごすことはできません。

スタールはナポレオンの迫害を受けた結果ドイツに渡り、そこでゲーテらの著名な知識人との知的交流を深めました。またそれ以上にその後のスタールに影響を与えたのは、A.W.シュレーゲルとの出会いでした。

スタールはドイツで出会ったシュレーゲルを自分の子供達の家庭教師として雇い入れる名目で、スイスの自宅に迎え入れました。同時に、スタール自身もドイツで初期ロマン主義を牽引した著名な文学評論家でもあったシュレーゲルから多大な知的影響を受けました。※1

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シュレーゲルは、ロマン主義について「知性は真理の一部のみしか捉えることができないが、感情はすべての領域においてすべての要素を抱き寄せ、認識し、その中へと入っていくことができる」と説明しました。※2この言葉に表現された、ドイツ初期ロマン主義に特徴的な「感情の神格化」はその後のスタールの作品にも取り入れられていきました。

小説『コリンヌもしくはイタリア』はイタリアを舞台とした小説です。同時に、感性に強い重心を置いている、という点でこの小説は何よりもドイツロマン主義の影響を色濃く反映しています。異なる文化間の交流が個人や国家を対立させるものではなく相互に豊かさをもたらすことを強調するスタールの世界主義的な立場は、スタンダールらのフランスロマン主義文学に多大な影響を与えることとなりました。


  • ※1 August Wilhelm Schlegel, Cours de literature dramatique 13 leçons, 1808) ‘Si l’intelligence ne peut jamais saisir en chaque chose isolée qu’une partie de la vérité, ce sentiment par contre, en embrassant toutes choses, perçoit et pénètre tout dans tout.’