ヴェネチア (Venezia)
ⅰ)運河
運河の両側からヴェネチアの宮殿があらわになる。それらはイタリアの壮大さを表すかのように巨大でいささか荒廃している。そこには古典様式とは全く異なる風変わりな様式の装飾が施されている。ヴェネチアの建築からオリエント世界(中東)との貿易の影響を読み取ることができる。(コリンヌ、15-VII)
はじめあなたはこの街が水の中に浸かった街だと思うだろう。そして海を制覇してその上に街を築きあげた生に限りある人間の才覚を称賛する前に、一時考え込んでしまうことだろう。ナポリは海岸の際に建てられた巨大劇場のようなものだ。しかしヴェネチアは全く平らな土地に立ち、そこにそびえる教会の鐘はあたかも波間で不動を余儀なくされた船の帆のように見える。(コリンヌ、15-VII)
この街の沈黙は深い。ここでは運河が通りの役割を果たしている。船を漕ぐオールの音が唯一この沈黙を破る。(コリンヌ、15-VII)
これらの黒いゴンドラが運河を滑る。それは人の最後で最初の住処である、柩とゆりかごのようだ。(コリンヌ、15-VII)
ⅱ)自由とは言えない共和国
貴族は何はともあれ民衆からの支持を求めた。しかしその手段として民衆を啓蒙するのではなく楽しませるという専制主義に特有のやり方を採用した。それでも民衆にとって娯楽とは快適なものだ。社会の最下層の人々にまで天候と美術によって想像の習慣が植え付けられている国ならなおさらそうだった。民衆を困らせてしまうような不作法で魂を傷つけてしまうような楽しみではなく、音楽、絵画、即興詩、祭りと言う類の楽しみだったからである。暴君がハーレムを扱うのと同じやり方でヴェネチア共和国の政府も臣民を扱った。政治への関与や権威について判断させるようなことはいっさい求めない。しかしこうした犠牲の元に、政府は人民に多くの娯楽と十分な栄光を約束した。(コリンヌ、15-VIII)
この単純な政治権力が法の遵守に基づいていたのならどんなにか良かったことだろう。しかし実際にはそれは政府が国家秩序を保つために要した恐怖を引き起こす秘密措置に基づいていた。(ため息の橋について、コリンヌ、15-IX)
そうはいっても上院の偉大な功績に対しては敬意を払うべきであろう。上院の存在によってヴェニスは寡頭政となり、そのメンバーにエネルギーと貴族的偉大さを促した。上院のメンバーの数は極めて少数だったが、彼らの存在自体は自由の果実と言って間違いなかった。上院のメンバー同士は少なくともお互いに対しては厳しく、かつ彼らが全ての市民が享受すべき徳と権利を作り上げたことを見て取ることができるだろう。(コリンヌ、15-IX)
解説
ベネツィア共和国はイタリア半島の北東部に位置する独立した海洋共和国で、697年から1797年まで存続した世界一長寿な共和国である。11世紀には強力な艦隊と商船を有し、アドリア海から東地中海、国会の海上貿易を独占し、東方貿易の中心地として胡椒、香辛料、織物を輸入、ヨーロッパから初めは奴隷、後に羊毛製品を輸出した。十字軍を通じてさらに商業的特権を拡大した後13世紀末には上層市民が貴族として寡頭政治(少数の有力者が政治を独占する政治)を行った。オスマン帝国による敗退の後ベネツィア共和国は1797年にナポレオンの侵略を受けた後、オーストリア支配の地域、フランスの傀儡政権であるシサルピン共和国、そしてフランスが支配するギリシャの一部に分割統治された。その後1866年に統一イタリアに併合された。スタールが書いたとおり、極めて貴族主義的な性格を持った上院は1000年以上に渡ってこの共和国の政治的安定の源となった。