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フィレンツェ (Firenze)

ⅰ)共和主義の精神 (Republican Spirit)

トスカーナ州は手入れの行き届いた耕地の広がる大変に美しい地方である。しかしローマ周辺のように想像に訴えかけるものがない。ローマ人はもともとトスカーナ州に住んでいた民族の原始的な文明をことごとく破壊したため、ここにはローマやナポリのようにあんなにたくさんの興味をそそる過去の形跡がことごとく完全に失われてしまったからである。しかしトスカーナ州から別の意味での歴史の美しさを感じとることができる。それは中世の共和主義の精神の面影を色濃く伝える街並みである。シエナの市民が集まる公共広場やそこで市長が市民に対して話しかけたバルコニーを見れば、どんなに政治に無関心な旅行者でも心を揺さぶられるだろう。なぜなら彼らはかつて民主的な政府が存在したことを実感するから。(コリンヌ18-II)


解説

トスカーナ州は言わずとしれたイタリア旅行のメッカである。フィレンツェ、ピサ、ルカ、シエナ、ベルシリア、マレンマ、シアンティなどの美しい街がある。
シエナの歴史地区の中心にあるカンポ広場とは3つの丘が合流する窪地に建てられたため球状の付け根に向かって円形劇場のように傾斜している。ヨーロッパ中のもっとも代表的な中世の公共広場の一つとして言わずと知れた世界的に有名な観光地である。

フィレンツェの街からメディチ家が政治支配する以前の歴史も垣間見ることができる。
宮殿は要塞のような建築で、そこから自身の身を守ることができるようになっている。
外側には鉄のリングが見えるがそこに家紋の旗を立てたのだろう。これらの建物は共通の利益をまとめあげるというよりも個々の権力を維持するのにより都合がよく、街全体が市民戦争を行うのに都合がいいように作られているように見受けられる。(コリンヌ、7-II)

フィレンツェ裁判所(Complesso di San Firenze)の塔から敵がくるのが見えるため保身の準備をする時間があった。複数の家門が相互に鮮烈な憎しみを抱きあっていたことが、一部の宮殿があまりにもグロテスクな建て方をされていることからも見て取れる。宮殿が敵の土地にはビタ一文触れないよう、あらゆる手立てが講じられた。
これはパッツィ家がメディチ家に対する陰謀を企てた場所である。あそこは教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギべリン)を殺害した場所だ。
兄弟が権力の座についていないならもはや彼を憎む理由もない。栄誉も権力も失ってしまった国家は住民から不満の声すらかけてもらえなくなる。(コリンヌ18-II)

現在この街はまどろんでいる。そして石の建造物のみが以前の面影を伝えている。兄や弟が権力の座についていないならもはや彼を憎む理由も存在しない。栄誉も権力も失ってしまった国家は住民からは不満の声すらかけてもらえなくなる。(コリンヌ18-II)


解説

紀元前7から6世紀にかけてエトルリア人がフィレンツェに住み着いた。その後ローマ人が侵入するとエトルリア人の文明は完全に破壊され、変わって紀元前1世紀ごろフィレンツェはローマの軍事植民地となった。774年にシャルルマーニュによって征服された後、フィレンツェはトトスカーナ辺境伯(中世のイタリア王国と神聖ローマ帝国の間の境界領域)として自立し、これがフィレンツェ共和国の始まりとなった。 市政は当時フィレンツェの貴族によって牛耳られたが、同時に複数の派閥、グループ、家族間の権力争いにたえず悩まされた。とりわけローマ教皇と共和国の間の長期にわたる争いが続き、教皇派のゲルフと共和派のギベリンの対立が先鋭化した。

パッツィ家の陰謀とはパッツィ家がルネッサンス期のフィレンツェを支配したメディチ家を追放するための陰謀に失敗した歴史的事件を指す。1478年4月26日にパッツィ家のメンバーはメディチ家のロレンソ・デ・メディチと弟のジュリアーノを暗殺しようとした。ロレンソは軽症で助かったが弟のジュリアーノは殺害されてしまった。その後パッツィ家がフレンツェから追放されるとともに、この事件によってフィレンツェにおけるメディチ家の政治的安泰が確立された。

スタールの語る中世に重心を置いたフィレンツェのイメージは、14から16世紀の間に商業、金融、学問、そして芸術面でヨーロッパを牽引した、という今日当たり前の事柄のように知れ渡っているルネッサンス・イタリアのイメージとはあまりにかけ離れている。しかし意外なことに、これはスタール独自のイメージというよりも18世紀ヨーロッパの啓蒙主義の時代で共有された考えかただった。ルソー、モンテスキューら啓蒙哲学者たちは自由、共和主義、民主制などを謳った。当時のイタリアは近代国家としての統一性を持てずにいたため、その前史であるメディチ家の支配を含めた近世イタリアの歴史は啓蒙の知識人たちからは軽視されてしまったのである。この時代政治、哲学が重視された結果芸術そのものの価値が横に置かれたてしまった。その結果多くの装飾にあふれ今日観光客を魅了するルネッサンス美術もそれらが共和主義的自由に関係していたか否かという視点から論じられた結果軽視されてしまったことがうかがわれる。

スタールはメディチ家失墜後他民族に支配されたフィレンツェの人々のメンタルを「眠り」という言葉で表現している。では具体的にスタールはここでどの国による政治支配を指しているのか。小説は1794-1795年を想定しており、その時代フィレンツェはオーストリアハンガリー帝国の支配下にあった。一方スタールが実際にフィレンツェを訪れたのは1804-1805年であり、当時この街はナポレオンの傀儡政権だったエトルリア王国の首都だった。その後1808年から1814年までフランス帝国の一部に併合された。ナポレオン敗退後ハプスブルクーロートリンゲン家がトスカーナ地方に復活した後、フィレンツェは1861年にイタリアの一部となった。

ⅱ)サンタクローチェ聖堂 (Basili Santa Croce)

サンタクローチェ聖堂は多分ヨーロッパで最も著名な人たちの墓を集めた聖堂である。コリンヌは二列になった墓の間を歩きながら深い感動に浸った。ガリレは宇宙の秘密を発見したがゆえに同時代人から迫害を受けた。その先にはマキャベリの墓がある。マキャベリは犯罪人としてではなく観察者として罪深い芸を編み出したが、その教訓は抑圧される側ではなく抑圧する側により多くの利益をもたらした。(コリンヌ、18-III)

コリンヌの眼差しは、とある墓に刻まれた碑文に釘付けになり、その前に跪いた。そこには次のように書かれていた。

黎明時に一人、夕暮れ時に一人、そして私はまだここに一人でいる。

(コリンヌ、18-IV)


解説

サンタ・クローチェ聖堂はミケランジェロ、ガリレオ、マキャベリ、ジョヴァンニ・ジェンティーレ、ロッシーニといった著名イタリア人の埋葬場所であり、そのため「イタリアの栄光のパンテオン」とも呼ばれている。

ⅲ)マキャベリ

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人心の観察は文学に対して無蔵のインスピレーションを与えてくれる。しかし熟考よりも詩を好む国民(つまりイタリア人)はどちらかといえば哲学的皮肉よりも喜びの洪水に浸りたがる。人間についての知識に基づいて身近な人を皮肉るという態度にはどこかもの悲しいものがある。相手に不快感を催させることのない無垢で無邪気な陽気さは本来想像の世界のみのものである。だからと言ってイタリア人が巧みな人間観察をしないということを意味するわけではない。またイタリア人が人が表に出さない考えについて鈍感であることを意味するわけでもない。イタリア人は人心の観察という才覚を自分たちの行動の指針に利用することのみに関心を持ち、それを文芸に役立てようとは思っていないだけである。

マキャベリは隠すという態度とは真逆に、罪深い政策に込められたあらゆる秘術について万人に知らしめた。マキャベリの例から、イタリア人が人心についていかに恐ろしい知識を持ちうるのかを思い知らされる。(コリンヌ、7-II)


解説

ニコロ・マキャベリ(1469-1527)は、イタリア・ルネッサンスを代表する有名な政治哲学者である。彼はフィレンツェ共和国の政治家および秘書でもあった。『君主論』(1532)によって「権謀術数」という言葉を世界的に有名な政治概念として知らしめた。当時のイタリアでは小国家同士の対立が続いていたため外国勢力による侵略の結果さらなる混乱が起こりうることを憂慮したマキャベリは、国家統一の必要性とその方法について論じた。そこで「権謀術数」平たく言えば政治においては「目的のためには手段を選ばない」と説いた。彼は政治とは恐怖、軍事力、様々な陰謀のテクニックによって成り立っていると主張し、政治を宗教や道義的理想論から引き離したことはあまりにも有名である。だからと言ってマキャベリは必ずしも有徳な君主の価値を否定したわけではなかった。スタールは無心論者で不道徳で皮肉屋なマキャベリのイメージをナポレオンと重ね合わせて批判的に描写したが、実はマキャベリの政府論については誰よりも高く評価していた。


参考文献
  • Mme de Staël, Corinne ou l’Italie, Edition de Simone Balayé, (Gallimard, Paris), 1985.
  • Mme de Staël, Corinne, or Italy (Oxford World’s Classics), edited by Sylvia Raphael and prefaced by John Isbell, (Penguin, Oxford), 2009.
  • Encyclopedia Britannica
  • Guide bleu, Italie, Michelin, 2018.

引用はすべてMme de Staël, ‘Corinne ou l’Italie’, Œuvres complètes, série II, Oeuvres littéraires, tome III, ed. Simone Balayé, (Paris, 2000)による。翻訳はすべて本人による。
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本研究のためのイタリア視察旅行は2018年度大妻女子大学個人戦略研究費S3023によって実現した。研究費を賜った大妻女子大学に対してあらためて深く感謝の意を伝えたい。